たまたま、仕事で泊まったホテルで、東海道五十三次の江戸時代を回想するのも悪くないかも。
今じゃ殆ど知らないことばかり、でもちょっと知ると、急に江戸時代の風景が目の前に!
東海道は、「行政区分」の意味と「道」の意味の2つがあります。
一つ目の意味である「行政区分」とは、現在の都道府県にあたります。古代の律令時代(701年に大宝律令が制定される)においては「五畿七道」という分類でした。大和・山城・摂津・河内・和泉の現在の関西にあたる五機と東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道という七道です。東海道はその内の一つのエリアという事です。
もう一つの意味である「道」としては、上記の五畿七道の駅路の一つとして古代から東海道は建設されました。昔は橋の技術が無かったため、山道である東山道の方が良く使われたそうです。
10世紀以降、橋が発達し、東海道も多く使われるようになりました。
江戸時代になり、徳川家康が「五街道整備」を行い、宿場を制定しました。
この時にできた街道が、全て江戸の日本橋から伸びる東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道になります。
それにより、街道としての東海道が生まれたのです。
東海道五十三次と聞けば、ゴッホやモネにも影響を与えたと言われる歌川広重の風景画が思い出されますが、この「次」とはどういう意味でしょうか。
江戸時代、徳川家康は全国統一した後、家康の居城である江戸と朝廷や豊臣の居城である京都・大阪を道路で繋ぎ、各要所ごとに関所を配置することで、何かあった時に直ぐに関西に攻めていける、もしくは攻めてこられても直ぐに防げるような軍事道路を設置しました。これが東海道です。
軍事で使わない時は、幕府などの公用の書類や荷物を運ぶことになりますが、その際に同じ馬と人で江戸から京都や大阪まで一気に持っていくことはできないように設定されていました。
「宿駅伝馬制度」と言われるものです。
実際には非常に面倒でしょうが、「宿」で毎回、馬と人を乗り継ぎして、荷物や書類を乗せなおします。家康から「伝馬朱印状」を受け取った人は乗り継ぎ用の人馬(36~100の馬)を用意しておかなければいけません。この宿駅伝馬制度から、東海道を53の宿で乗り継ぎするという意味で「次」と言われるようになりました。
元々は「宿」のメインの役割は荷物の載せ替えを行う拠点でしかなかったので、初めは農村のような田舎町だったと思いますが、現在の新幹線や私鉄、地下鉄の「駅」と同じで人が乗り降りして行き交う場所では、自然と宿屋や食事処や飲み屋、遊び場などが出来てきます。
宿屋で言えば、大名などしか泊まれない高級旅館の「本陣」や二番手の「脇本陣」、普通の人も泊まれる「旅籠」と当時からホテルセグメントがあったようです。
またメイン業務である人馬の載せ替えと次の宿までの運搬は問屋場という場所で行われました。
今で言う所の運送会社ですね。
宿屋の数が増えてくれば、そこの宿場に滞在する人も増える為、接客業の店も自ずと増えてきます。当ホテルの場所である、「宮宿」では当時国内最大の宿場で、本陣が2軒、脇本陣が1軒、旅籠が248軒、家が2924軒、人口も1万人を超えていたそうです。江戸時代初期は国内人口が30万人ほどと言いますので、今で言う所のかなり大きな地方都市(人口300万人都市レベル)と言えます。
東海道五十三次は、東京の「日本橋」を出発して、ゴールである京都の「三条大橋」まで約492kmあります。現代の人の徒歩のスピードはだいたい時速5kmほどですから、1日5時間歩いたとしても20日はかかります。
では江戸時代ではどうだったかと言うと、約2週間(13日~15日)ほどで到着したようです。
乗り物もないので、昔の人は自然と足腰強く、長距離移動も苦じゃなかったのかもですね。
ちなみに飛脚はと言うと、駅伝方式で最短3日で江戸から京都まで運んだようです。。飛脚もランクがあったようで、3日で届ける最強速達便はめちゃくちゃ金額が高かったようです。
日本で生まれた駅伝は、1917年に読売新聞の発案・主催で「東海道駅伝徒歩競争」という名前で開催されました。まさに東海道五十三次の「伝馬制」から着想を得たそうです。
当時は、京都の三条大橋を出発して東京の上野不忍池まで23人の選手が宿場で交代し、約508kmの東海道を夜通し走る、衝撃の現代版「飛脚レース」だったようです。。2日後の午前中にはゴールするようで、今考えればとんでもないレースと言えます。
このレースから競技名を「駅伝」と呼ぶようになり、今の駅伝として引き継がれることになりました。
現在の有名な駅伝としては、正月の「箱根駅伝」(往路5区、107.5km/復路5区、109.6km)や熱田神宮から出発する「全日本大学駅伝」(8区、106.8km)があります。
最も栄えた東海道41番目の宿場町である「宮宿」の玄関口だった場所が、なんと、エクセルイン名古屋熱田が建っている場所の目の前にある「裁断橋」になります。
その昔、精進川にかかる裁断橋を渡って、江戸から歩いてきた人々は宮宿に入りました。
そして、鈴之御前社で鈴のお祓いを受けて身を清めてから、熱田神宮に向かいます。
裁断橋を超えて東海道を進むと、「源太夫社」という今は熱田神宮の中に移された「上知我麻神社」にぶつかります。現在は、「源太夫社」の代わりに「ほうろく地蔵」が祀られ、道標として今に残っています。ここから北へ行くと「熱田神宮」「名古屋城」、ここから南へ行くと「七里の渡し(桑名宿へ繋がる)」に通じます。
当ホテルの目の前の道は、江戸時代に人々が行き交った「東海道」なのです。
ホテルにお泊りの際にお時間があれば、この「東海道」と玄関口であった「裁断橋」、分岐点の道標としての「ほうろく地蔵」を通って北へ「熱田神宮」に参拝、戻って南に「七里の渡し」へ行ってみてください。まさに江戸時代の東海道を体感できることでしょう。
当ホテルの横の道が江戸時代の東海道だったということで、ホテルから南東に30秒ほど歩いた所に「一里塚」があった場所があります。
この一里塚は名古屋市内で唯一残る一里塚だそうです。1604年に宮宿と鳴海宿の間に作られた一里塚です。一里塚の上には目立つように「榎」が植えられています。
東海道は日本橋から京都の三条大橋まで一里(4km)おきに塚が設置されていました。それぞれの塚には榎(過半数は榎だった)、松、杉などが植えられたそうです。
当ホテルの8階フロアの客室番号札は、東海道の一里塚をモチーフとして全てこの「榎」で作られています。
一方、「道標」は先程紹介した「ほうろく地蔵」の正面に、現在も残っています。
当ホテルから徒歩8分ほどになります。